「ドイツの原子力物語―幕開けから世紀をこえて―」 改訂第2版 附録-2
  外林秀人 外山茂樹 訳編著

附録 平和への願いを込めて その2

改訂 第2版 刊行に向けて・・

 2003年、初版発行から8年が経ち、原子力関係にもいろいろと変化がありました。そのなかで一番重要なのはドイツの
原子力発電脱退が、宣言でなく、法律なったことでしょう。

 原子力発電脱退は、この“本”の最終目的で、本書282ページ“原子力平和利用分野でのドイツと日本の協力関係”にも記載されているように、日独協力を唱えており、将来の夢を祈念したわけです。ドイツでいろいろ曲折があったにしても党派をこえて、人民の力で脱退を決めています。日本もそうあるべきです。

 1938年に原子力が発見され、我々に渡され、2011年に返却したことになります。ノーベル賞に値すると考えています。
2011年3月11日、東日本大震災による福島の原発事故で、人間の限界、弱さが分かり、自然力の過小評価により、平和利用は未だ不可能の段階にあることを思い知りました。

 ここでは付録の追加として
 E 第3章「キノコ雲の下で」の講演に対する反響
 F ポツダムの『ヒロシマ・ナガサキ広場』
 G 福島の原発事故 そしてドイツの原子力発電脱退法規
を加え、核利用廃絶を訴えるものです。

付録E 第3章 「キノコ雲の下で」の反響

 著者の外林秀人は自らの被爆体験は思い出したくないことであって、進んで語り明かすことはなかった。だがこの本を出版するに当り、共著者の外山茂樹から「キノコ雲の下で」という節を設けることを提案され、思い切って書き下ろした。

 本に書いてそのことを印刷物にしたのは、1945年8月6日のあの日から58年後の2003年であった。それから2
年後、あの日から60年後の2005年には愛知万国博覧会があり、名古屋大学で「ドイツの原子力物語」を語る講演会が開かれた。

 ここで外林秀樹は「広島で原爆体験をしてドイツから学ぶこと」と題して講演を行った。だがそのときの話の内容は後半のドイツに学ぶことが中心で、原爆体験について具体的なことは話すことはできなかった。広島では、原爆の生存者は英雄ではなく差別されるものであり、人々は被爆者から放射線の被害が伝染したり、奇形児が生まれるというような風評があった。だが広島のような出来事が二度とおこらないようにするため語らなければならないという心が抑えがたく膨らむのを感じた。

 日本を離れてベルリンに戻って心の整理をした。このままでは世界は破滅から何も学んでいないように映り、それゆえに沈黙を破って話をする決意ができた。これまでは口をつぐんでいたのだが、ここにきて過ぎ去った人生の大部分をできるだけ早く整理し、まとまった形で残しておきたいという熱い思いが打ち勝ったのである。そして 遂にその日が来た。それは評議員をしているベルリン日独センターで、「広島の原爆の夕べ」を1007年11月1日に、ベルリン日独協会と将来研究・技術評価の研究所の共催による講演会であった。講演の反響は大きく、ベルリンの新聞や放送で紹介された。

 これを契機にいろいろな団体から声をかけられ、被爆体験の語り部としての行脚がはじまった。突き動かすものは、講演に対する反響や励ましである。講演会場で受ける直接の質問や感想、後から届けられる感動の手紙が絶えない。寄せられた手紙は若者からが多く、そこには戦争を知らない彼らの鮮烈な印象と、人間の愚かさに対する慄き、核廃絶に対する明確な意思表示が綴られていた。ここにその一部を紹介しよう。

 <感想文 その一>

 親愛なる外林先生

 先ず最初に先生から大変興味深いご講演をいただき、心からお礼申します。私達の幾人かは、先生の講演で恐るべき原爆攻撃を初めて知りました。概略そのことを既に知っていた人々も、新聞で得た情報から非常に緊張していました。

 ビデオと先生の体験からとんでもなく大変なことの全てを知りました。先生をはじめ多くの原爆被害者が、この残酷で恐るべき体験をしなければならなかったことを知りました。これでみんなが情報を共有することができましたので、その後クラスで引き続いてこのテーマについて話し合いました。そこではそれぞれ個性的な質問が出てきました。参考までにそのいくつかを書き留めます。

 M・Kさん=非常に興味があった。先生が生き残り原爆を絶滅すことに努力しているのはとても嬉しいことです。

 S・A君=先生がお母さんの亡骸を弔い、勇気を持ってそれを語ることがとても印象的でした。最も衝撃的なのは、石の上の人間の影でした。私は外林先生を尊敬します。

 C・Aさん=私はボスニアで、そのような見たくないものをたくさん見ました。話題は再び写真のことになり、彼女にはこの写真に深く感じるもがあったようでした。

 L・Hさん=外林先生は大変しっかりした方で、十六歳にしてそのようなことをやり遂げられた!また、その事を勇気を持って話された。これはとても素晴らしいとです。

 
 これらの感想は先生の講演のテーマが、いかに私たちを引き付けたかを示すものです。私達のクラスの感想をまとめたのですが、当然のことですが別の意見も少しありました。

 私たちは先生の素直さ、勇気を心から感謝します。先生が最も多くの若い人々ばかりでなく、お年寄りの方々とも話し合い、このテーマに関心を持たせてくださることを希望します。何故なら先生のような行動のみが、壊滅的なカタストロフが二度と起きないようにすることができるからです。先生の将来に幸運がありますように、また先生の講演がもう一度聴かれますように。                                                       敬 具

 <感想文 その二>

 親愛なる外林先生

 先ず最初に大学図書館における先生の興味深い感動的な講演に感謝します。講演を聴いた私達には、先生のお話は大変納得のいくものでした。私たちはそれぞれに集めた情報と、先生の講演における事実を比較しました。そして驚いたのですが、先生はご自分の経験を大変上手に話され、私達に広島原爆攻撃を間近に感じさせてくれました。数日後、クラスでもう一度広島原爆について話し合いました。その時に寄せられた学生たちのコメントを、ここに感謝をこめて紹介させていただきます。

 S・Aさん=先生のお母さんが亡くなられた後の始末や、またそのことを話す勇気に感動しました。石の上に残された人影の話は強烈に私の胸を打ちました。私は外林先生を尊敬します。

 R・Fさん=外林先生は当時、私の現在の年齢でした。私の両親が休暇で留守のとき、あのようなことが起こったら私はどうなるでしょう。そのようなことが二度と起こりませんように。

 L・D君=講演は強烈で、興味深いものでした。DVDは講演をとても分かりやすくしていました。

 M・Kさん:非常に興味深く聞きました。私はかつて、原子爆弾の製造について学校で習ったことがあります。その時には鳥肌が立ちました。外林先生がベルリンに生活の拠点を築いたことに感動しました。先生の御多幸をお祈りします。

 <学生からの質問とそれに対する返答>

 親愛なる女子学生、男子学生のみなさまへ

 感想文どうも有難う。私の講演をよく理解してくれ、非常に嬉しく思っています。いろいろの質問がありましたが、次のように代表的なことを選んでお答えしましょう。

 (質問1) 核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の展示に、黒い油性の雨粒が広島で降ったとありますが、体験しましたか?

 【返答】 それは黒い雨=@です。広島の原子爆弾爆発後に黒い、べとべとした、油性の雨が降りました。この降水はウラン核分裂から出来た放射性物質からなっており、放射性の水が、被害者の皮膚や衣服に付着しました。更に悪いことのに人々は身の回りにある放射能での汚染をまったく知らず、それに何の対策もしていませんでした。しかし、降った地域は全広島でなく、局所的で私は幸いに遭遇しませんでした。

 (質問2) 先生は川に浮かんでいる友人の死体を見つけ引きあげたと、恐るべきことをなされ感動しましたが、そのような力はどこから出てくるのですか?

 【返答】 私は本来血≠ノ弱い人間で、血を見るとおびえます。しかし緊急事態に遭遇すると、私は全く別の人間になりました。私は負傷し、出血している友人を助け、川に浮かんでいる友人の死体を見つけました。死体への崇拝、苦しんでいる人を助けること、これらを私の両親と仏教から学びました。

 (質問3) 先生は、なぜ永い間、体験を話さなかったのですか?

 【返答】 生存している原爆被害者は、異常な状態に現在もあり、日本には被爆者≠ニいう特別の名称があります。放射線を受けた人々は初期の頃は科学知識の不足により、症状が伝染するといわれました。現在でも科学的に言って、放射能が人間にどのように作用し、何年後に、又は次の世代にどのような症状が出てくるのか、誰にもいえないという理由で疎外されているのです。

 被爆者≠ヘ一般的に公衆から逃げ、広島について喋らない傾向があります。わたしも日本の家族を保護す

るために、60年間沈黙してきました。しかし世界中に多くのマイナスの発展があり、非常に心配しています。

多くの年寄りの被爆者は死亡し、体験談を話す義務が私にあるような気になっています。そこで2007年11月1日

に初めて体験談を話し、その後ドイツ、スイス、オランダ、と『広島と長崎の追悼』を続けています。

 21世紀の初めでも未だ
新規の被爆者≠フ申請が続いており、自分の被爆体験を公開する勇気を持つことが

出来ました。

付録F ポツダムに『ヒロシマ・ナガサキ広場』

 アメリカ大統領ハリー・トルーマンが原爆のテスト成功の知らせを受けたのは、連合軍に占領されたドイツのポツダムであった。トルーマン、チャーチル、スターリンといった連合国の三巨頭がポツダムのグリープニッツ湖沿の接収住宅に陣取ったのは一九四五年七月十六日であった(p.185)。この湖畔の「小さいホワイトハウス」と呼ばれる、トルーマンが宿泊している家から、ワシントンの防衛省に、原子爆弾を日本の都市に投下するよう指令が出された顛末は第三章で紹介している(p.200)。

 この記憶をポツダム市民が思い起こして、2005年に、トルーマンが命令を発した「リトルハウス」の前を、「ヒロシマ広場」と命名することがポツダム市議会で決議された。これを機に、記念碑を設置しようと「ポツダム・ヒロシマ広場を作る会」が発足した。会の目的は、記念碑を建てるための募金活動であり、同時に広島、長崎の惨事を忘れないようにということで、いろいろな行事が催された。路面電車には「ピカドン」という文字を車体に書き込んだりしてアピールした。またグリプニッツ湖畔では灯篭流しなどが行われた。

 著者の外林は講演の後で募金を集める帽子を回し積極的に協力した。記念碑は重さ36トンで長さ約9メートルの閃長石で、ノルウェーなどを中心に活動する岐阜県出身の石彫家が制作した。広島からは、路面電車の敷石(100kg)と長崎からは山王神社境内の被爆石(220kg)をその前に据えた。さらにその前に横たえた石盤には、広島・長崎の原爆犠牲者を悼み、次のような碑文が、日、独、英語で刻まれることになった。

 (日本語の碑文)

 1945年8月6日と8月8日に広島と長崎に投下された原爆によって犠牲となった人々を 追悼して。

 連合国によるポツダム会談が1945年7月17日から8月2日まで行われ、その間、アメリカのハリー・S・ トルーマン大統領が正面にある邸宅に滞在していた。

 1945年7月25日、アメリカ大統領の同意の下、ワシントンから軍の原爆投下命令が 下された。

 原爆の破壊力は、数10万人の人々を死に追いやり、人々に計り知れない苦しみをもたらした。

 核兵器のない世界を願って

 除幕、落成式は六十五年前に原爆投下命令が下された2010年7月25日に行われれた。

 正式には『ヒロシマ・ナガサキ広場』となり式典には両国関係者約400人が出席し、秋葉忠利広島市長や田上富久長崎市長のメッセージも紹介された。

 新聞は次のように伝えた。

 「7月25日に行われた除幕式で、碑はポツダム市へ寄贈された。式典ではドイツ各地で 被爆体験の講演会を開き、碑建立への寄付を呼びかけてきたドイツ在住の外林秀人さんが、 『この広場に記念碑を建設するのは大きな意義がある。核兵器は人類史上最悪の兵器。原爆の結果を忘れず、人類は平和維持のため全力を尽くさなければならない』などと挨拶した。」

 その後、ニュースダイジェストは次のような対談を掲載した。

 <ニュースダイジェスト紙の対談>

 記者=2007年にベルリンの日独センターで講演されて以来、ドイツはもちろん、ヨーロッパの諸都市で講演を続けてこられました。そこで集まった募金は、記念碑建立の資金に回されたと伺っています。現地の人の反応はいかがでしたか。

 外林=反応はとても良いです。私が原爆を受けたときと同じ、15、16歳くらいの若い皆さんの前で話す機会もありますが、後でいただいた手紙を読むと、アメリカを憎むとか、責任は誰々だとか、そういうことではなくて、「人間がこんなことをして良いのですか?」という純真な反応を示してくれます。

 記者=今回のポツダムの記念碑に関して、現地在住のアメリカ人による投稿が地元紙に掲載されました。
「この記念碑を作ることによって、日本人は被害者の立場に立ち、戦争の責任から目を反らそらそうとしている」という趣旨の投稿に対して紙面上で議論が交わされ、ちょっとした話題となりました。

 外林=広島と長崎に原爆が落とされて、被害を受けたのはもちろん日本人です。でも私は、原爆というのは神が人類全体に対して行った行為だと思っています。私がいろいろ意見を言っているのも、日本人としてではなく、こういう悲劇を二度と人類は起してはいけないという意味で、多くの人間の一人としてお話しています。核の危険が増す中で、ボタン一つ押せば原子爆弾は飛ぶんですから。すると、相手も自動的にボタンを押すでしょう。それで人類は滅亡するんです。最後なんです。人類全体の問題として話をしているのに、議論の程度が低くなると、誰々が殺した、だからこちらも殺した、ということになってしまう。原爆の被害はわれわれだけでいい。その望みをこれからの人に託したいという思いから、私は今いろいろな場所でお話しているのです。

 記者=外林さんが永年勤めたマックス・プランク協会のフリッツ・ハーバー研究所は、奇しくも核をめぐるもう一つの原点の場所と向かい合っておられたわけですね。問われる政治家と科学者のモラルについてどのように考えられますか。

 外林=私のダーレムの研究所の近くに、旧カイザー・ウィルヘルム化学研究所があって、1938年にオット・ハーン、フリッツ・ストラースマン、リゼ・マイトナー達はそこでウランの核分裂を発見しました。原子核のエネルギー利用が人間の手に渡ったのです。その七年後の1945年7月16日トルーマンがポツダム滞在中、原爆完成の報告を受け、25日に原爆投下の命令が出されました。そこから言えるのは、発見した科学者の彼らは、 原爆のことなどもちろん頭になく、ただ科学的な好奇心から研究を突き進めたわけです。ところが、7年経ってその成果が爆弾という形になって現れてしまった。ここです。面白いと思ったら何をやっても良いだろうか? 例えば、アインシュタインは最初原爆開発の提案をしましたが、その破壊力が恐ろしくなり、実際の開発には関りませんでしたよね。そういう人間的なところがある。ところが原爆は実際に生まれ、実行へと移されてしまった。私はここに科学者と政治家の道徳や倫理の不足を感じます。それゆえ、私はこの記念碑の最後の文章にこう付け加えたっかたのです。

 『我々はよく考えねばならない。政治的、科学的な好奇心には限界はないのか?そこに道徳的、倫理的な障害物があるべきではないのだろうか?』と。

 ベルリンのダーレムで核分裂が発見され、紆余曲折を経て7年後、ポツダムのこの館での命令によって原爆投下が実行に移された。両者は20キロと離れていません。原子爆弾の歴史でこれほど意義ある場所はないと思うのです。私が提案した一節は、ポツダムの州会議で議論の末、残念ながら削除されてしまいましたが、この記念碑はそのような問いかけ、思索の場所になればと願っています。

 講演活動はその後もつづけられ、このことについて外務大臣から2011年7月8日付けで表彰状を賜った。それには次のように記されている。

 貴殿は日本とドイツの相互理解の促進に尽力され もってわが国と諸外国との友好親善に寄与しその功績は顕著なもがあります。ここに深甚なる敬意を表するとともに表彰します

 それから2011年9月にはバルト海の港湾都市キールで非核特使として講演を行った。同席した共著者外山茂樹に外林秀人は、「命の限りこうした講演を続ける」と語った。

付録G 福島の原発事故 そしてドイツの原子力発電脱退法規

 放射線の科学からダーレムで核分裂反応が発見されてから、7年後原子爆弾が生まれ日本を襲った。さらにその8年後の1953年にはアメリカのアイゼンハウアー大統領が原子力の平和利用宣言をした。これは原子力の利用が爆弾という兵機のイメージを払拭して、発電というエネルギーの平和利用を前面に出して経済の発展と結びつけようというタイミングでもあった。

 核分裂反応を制御して発生するエネルギーから原子力発電という技術が開発され、使用済み燃料はリサイクルされ、そこから生まれる放射性物質は医療や新しい機能を持った材料の創生にも利用が期待された。また放射線は化学分析や物理量の計測の開発にも利用されるなど、輝かしい平和利用の未来像が描かれた。

 日本は原爆の被害を受けた国にもかかわらず、原子力平和利用を前向きに捉えて1957年には東海村に原子の火が灯り、1970年には関西電力が、1971年には東京電力が、福島に原子力発電所を完成させて売電事業を開始した。

 それから国策として各電力会社もこれに倣い、日本は原子力時代へと舵が切られた。バラ色の夢を描いて始められた原子力であったが、10年、20年と年を経ると、チェルノブイリやスリーマイル島などのような深刻な事故が発生した。しかしそれを他所事として国策を変えることはなかった。

 そこへ今回の3・11東日本大震災による福島原子力発電所の大事故である。これによって国策の隠蔽体質が表面化して、原子力発電存続について国民的議論が沸き起こっている。

 この本ではすでに第五章で「ドイツの原子力発電廃絶宣言とその行方」で紹介しており、いずれ撤退という決着を想定しているが、今度の福島原発事故でドイツは2011年6月6日付けで、さらに世界の先駆けとなる「原子力発電脱退法」を発布している。ここでは流れとして、その明解で具体的な内容を要約して締め括りとする。

 ◇エネルギーの将来へ向けての課題 2011.06.06(月)

 ドイツ政府の要諦決議書

 ドイツは迅速に再生可能エネルギー時代へと移行して、原子力利用から早急に脱退する。多くの閣議決定が既に動き出している。この兆候はドイツの経済および社会発展の一里塚である。ドイツの将来におけるエネルギー供給に関する要諦決議書に加えて、内閣は、合計一〇件の議案を決議した。原子力からの傾斜的な脱却にあわせて、再生可能なエネルギーの加速的拡大と電気ネットワークの拡張をパッケージにして用意する必要がある。  ドイツ政府は三つの主目標を目指している。

 ・環境への適合性
  ・安全なエネルギー供給そして
  ・手ごろに得られること

 引き返しのない原子力の終焉

 2022年以前に、ドイツでは最後の原子力プラントを休止させる。この決定は話題の連邦環境大臣ロバート・レットゲンの10年以上にわたって争点となっていた問題について、ドイツ社会の受け入れを再認識するものである。

 並行して、再生可能エネルギー利用はこれまでの計画より早いペースで進展させる。2020年には再生可能エネルギーはドイツの電力消費量の三五%以上を賄う。

 より早いネットワークに拡大

 今日、ドイツの電気ネットワークは再生可能エネルギーとの接続が不十分である。ネットワーク拡大促進法の制定は、新しい高圧線の敷設に拍車をかけることが出来るであろう。

 エネルギー節約の奨め

 エネルギー節約の奨めもまた見逃せない。一次電気の70%は送電と住居において消費されていると連邦建設大臣ペーター・ラムザウアーは述べている。

 2012年には合計15億ユーロのお金が毎年の既存の建物の修復に費やされている。建物のエネルギー効率を向上

させるために10%のコストは税金から捻出されている。すなわちもう一つの15億ユーロが計上されているのであ

る。

2012/04/30

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